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 映画偏愛少年時代
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新・荒野の七人
馬上の決闘
女王陛下の007
①奇妙なデザインのポスター
②007初体験は第7作
③リバイバルと封切り落ち
④映画小僧たちと
spオールナイト映画


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① 奇妙なデザインのポスター

 その昔、家族で数寄屋橋へ出かけた際、歩いていたときに目に入った一枚の“奇妙な光景”のポスターがあった。
如何なる理由からか、雪山を背景にスキーかソリみたいなもので銃をブッぱなしながら追撃してくる集団が背後に迫っていながら、普段着のような黒っぽい“背広”を着たまま片手にピストルを握って腕組みしたような状態で、ストックも持たずにスキーでジャンプしているようなスタイルで、ニヤついているような男性と、同様にドレスのような格好でその横に並んで片手にピストル握ってスキージャンプしているような女が“颯爽”といった感じで宙を舞っているという、その異様な光景のポスターの印象は強烈であった。
子供心に残った、“その異様な光景”のデザインへの疑問というか興味は延々と後年まで続き、いつまでもアタマから離れることはなかったのである。
しかし、その時も一つだけ分かった事があった。そのポスターの下の方に赤色の字でクッキリと書かれた題字の中には確かに聞き覚えのある「007」の文字があったのである。

 当時、まだ小学生だった我々にとって、「007」の印象と言えば、前々作にあたる第4作「サンダーボール作戦」の影響が最も大きい物だったと思う。
ショーン・コネリー=ボンドで一つの頂点を迎えたと言える、この作品公開時の日本での熱狂ぶりは凄かったようで、当時の子供たちにとって馴染み深かった同じ英国産のTVシリーズ、「サンバーバード」のプラモデルの“今井”から各種発売されたこの作品の水中メカをモデルにしたシリーズや、そのような関連商品は駄菓子屋のおもちゃなどにまでみられたのである。
また、少年誌の巻頭特集などでも作品中の秘密兵器やメカなどの紹介特集が組まれたりもしたので、流石に劇場での鑑賞の機会こそ無かった物の、そうした当時の国内のマスメディアの影響から、子供たちにとっては「007」=「サンダーボール作戦」=「水中メカ・秘密兵器」の図式となっていっただろう。

 また、後に知った話であるが、日本は「サンダーボール作戦」劇場初公開時の“封切り”は当時の世界各国の中でもっとも早く行われたことから、その為に「日本語字幕作成」のための翻訳元になる英語原版の脚本の到着が遅れてギリギリとなってしまい、ロードショー公開前夜までその作業に追われたという、当時のその人気の程が伺える逸話も残されている。
公開時が12月で“お正月映画”といったポジションでもあった、この映画が公開された1965年当時は、「娯楽」についても現在のように多様化を見せることなどは考えられず、そうした中で映画という物の存在が占める役割は大きかったと思う。 特に邦画の「男はつらいよ」の劇場版第一作の登場が1969年で有ることを考えると、“毎回同じ主人公が主演を続ける長編娯楽シリーズ” は(時代劇以外では)珍しかったとも言えるだろう。
但し、当時いかに入場年齢制限が無かったとはいえ、やっぱり「007」はオトナの娯楽映画であり、’60年代当時の小・中学生が堂々と観ると言うことはちょっとばかり、はばかられるものだっただろう。それというのも、今観れば他愛もない描写ではあるが、お約束ごとの“お色気シーン”が必ず入っていたからである。
まあ、昔の子供は“無邪気”なもんであったから、「ガイジンはやたらとキスするのが習慣で、どうやら男女ともスッパダカで寝るのが好きなんだぜ….」なんて勝手に考えていたりしたんじゃないかと思う(だってやっぱり、露骨に大人には聞けません)。

 このような、「射撃もピカいちで、格闘にも強く、メカにも強いだけでなく、マナーやダンスや酒についての知識にも長けて女にもモテる」“現代版スーパーマン”などと表現された「007」も、日本を舞台にした第5作「007は二度死ぬ」辺りになると、その内容や設定とスケールがエスカレートを続けた結果として次第に荒唐無稽化が目立ち始め、そのような方向性への疑問や、自らのイメージの固定化を嫌ったショーン・コネリーの降板劇に伴い、シリーズも一つのターニングポイントを迎えることとなる。
そして登場したのが、アルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンのイオン・プロ制作=ユナイト映画版第6作に当たる「女王陛下の007」だったのであった。

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② 007初体験は第7作

 しかしながら、この「女王陛下の007」から数年後に、「ダイヤモンドは永遠に」でショーン・コネリーが戻ってくる時まで、私自身が劇場で「007」を体験する機会は暫くの間“おあずけ”だった。

 シリーズ3作目から作品の公開を行なっていた当時の公開元である“東宝”のお膝元、都心の「日比谷映画劇場」での公開日時を記してみると、1965年12月11日〜翌年2月18日「007/サンダーボール作戦」、1年半年間があいて1967年6月17日〜8月25日「007は二度死ぬ」、また約1年半間があいて1969年12月13日〜翌年2月20日「女王陛下の007」、ここでは2年間があいて1971年12月18日〜翌年2月25日「007/ダイヤモンドは永遠に」という流れである。

 つまり、私が「女王陛下の007」ロードショー時のポスターを、日劇付近で目撃してから約2年後、1971年の第7作「007/ダイヤモンドは永遠に」でついにその時を迎えたのであった。
それまでほぼ1年〜1年半サイクルで公開されていた同シリーズが、“諸般の事情”により、新作公開まで2年間の空白が出来てしまったのである。 配給側としては毎年の恒例行事的に007シリーズの新作公開を希望していたであろうが、肝心の最新作が供給されないのではどうにもならなかった。そこで取られたのが、苦肉の策としてのシリーズ初の「リバイバル上映」による“穴埋め”であったのだろう。

 その時点で6作目までが公開されていた007シリーズの中でも、当時「最高傑作」の呼び名も高かった第三作、「007/ゴールドフィンガー」にその白羽の矢が立ったのである。その公開日時を確認してみると1971年7月3日〜7月17日までといった、僅か2週間の短期間上映ではあるが、これが「女王陛下の007」公開から約1年半間のタイミングであることと、このタイミングには新作が間に合わなかったためのファンサービス兼、「007/ダイヤモンドは永遠に」でカムバックするコネリー=ボンドの前宣伝を兼ねて取られた、経過措置であった事が想像出来る。

 そんな訳でわたしにとっては、1971年公開の「007/ダイヤモンドは永遠に」が待望の“007初体験”となったのだが、やはり既に定評のあるアクション活劇だけあって、小学生の小僧にも十分にその面白さは伝わった(つもり)だけでなく、007独特の斬新なオープニング・タイトルとエンド・ロール、そしてそのバックに流れて鮮烈な印象を残す主題歌の洗礼を受け、完全にマイってしまったのだった。
当然ながら、早速「ダイヤモンドは永遠に」の主題歌シングルを手に入れ、それを飽きもせずに何回となく聴いたものである。
しかし、その興奮に水を差すかのように、この映画が前作で一度降板したはずの“コネリー=ボンド”の、一回限りの“条件付きカムバック作品”であったことなどを、当時劇場で買ってもらったプログラムを読んでみて初めて知ったのであった。

 確か、映画のエンド・ロールの最後には、「次回は〜でボンドは戻ってくるでしょう」という、お決まりが書かれていたように思えたのであるが、肝心の主役が不在では、一体今後シリーズの制作はどうなってしまうのだろうか?、などと考えてしまったが、「取り敢えずはまだまだ未見の旧作がなん本も有るではないか」とばかり気を取り直し、ちょうどタイミング良くこの翌年の’72年より初期シリーズからの「リバイバル公開」が開始されたことも手伝い、斯くして“シリーズ完全制覇”を目指しての劇場通いは開始されたのであった。

 因みに、そのリバイバル第一弾的に公開されたのは、シリーズ第2作にあたる「007/ロシアより愛を込めて(「危機一発」改題)」であったが、その映画タイトルや広告などから、“親と一緒に鑑賞する”のはちょっとマズそうな気配を感じたため、ロードショー館での鑑賞は見送ることにして、その後に続いたリバイバル第二弾となる、絶対に外せないシリーズ第1作である「007/ドクター・ノオ(「殺しの番号」改題)」というのを、既に映画小僧も中学生となっていたので“親と一緒に”ではなく、同級生の“ケンちゃん”と2人で観に行く事にしたのであった。

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③ リバイバルと封切り落ち

 シリーズ初の「リバイバル公開」として、一番最初に使ってしまった「007/ゴールドフィンガー」を除いた“コネリー=ボンド”映画はこの後、やはり当時「傑作」と名高かった第2作「007/ロシアより愛を込めて(「危機一発」改題)」の’72年8月を皮切りに’72年12月から、第1作「007/ドクター・ノオ(「殺しの番号」改題)」に一度戻った後、(’73年7月初公開の第8作「死ぬのは奴らだ」を挟んで’)73年12月には“コネリー=ボンド”最終作の第7作「007/ダイヤモンドは永遠に」に一気にとんで、以降制作順に’74年8月の第4作、’76年6月の第5作まで、元々第2作目までを初公開していた松竹系列にて‘70年代を通してリバイバル公開されていく事になる。
但し、東宝の協力で製作された経緯の「007は二度死ぬ」のみは、本元の東宝系でのリバイバル公開と、一部変則的となった。
要するに、順番的には3.2.1とカウントダウンしてから、7.4.5.といった具合の順不同である。

 私が、自身の「007」2本目として同級生の“ケンちゃん”と2人で観に行った第1作である「007/ドクター・ノオ」は、都内でも、シネラマも上映できる比較的大きめの劇場で封切られ、“4チャンネル・ステレオサウンド”と書かれた新聞広告やポスターなどが、リニューアルを強調していた。
「きっと大人気の大混雑だろう....」などと勝手に想像し、ここはフンパツして今回は指定席で観た方が良いのでは、と2人で相談して臨んだ公開当日、勢い余って自分たちが決めて既に券を取っていた上映時間よりも、かなり早く劇場に到着してしまった。しかし、自宅←→上映劇場分の交通費+α程度のみで、余分な金の持ち合わせなど殆ど無い小僧たちは他に行き場もないので、そのまま中に入ってしまったのである。
その結果見た劇場内の混雑ぶりはさほどでもなく、こんな事なら初めっから一つ前の上映回に来ていたなら、指定席など取る必要も無かったんじゃないの状態だったが、気を取り直し(お互いにその件には触れずに)いよいよ始まる“自分たちの上映回”を待った。

 第1作だった「007は殺しの番号」は、予算やスケールもシリーズの以降の作品と比べてしまうと些か見劣りする感もあるが、元々が“スパイ物”とは言っても所謂ハードボイルド小説の映画化作品であり、後の派手なアクション活劇調の路線とは、作風もちょっと違っているように思う。そもそも原作小説自体は、以降の映画版に比べるともっと地味な内容であり、作品タイトルこそ同じでも、その内容は次第に乖離していくことになる。
また、制作されたのが1962年という時代背景を考えても、同年の映画を眺めてみるとジャンル的には「西部劇」「時代劇」「人間ドラマ」「戦争映画」「サスペンス物」「東宝特撮」などがその大半であって、007のようなハードボイルド風のアクション活劇などは他に見あたらず、第1作に於いて既に、この作品のオリジナリティは印象づけられた事だったろう。

 そして、“やっぱり、シリーズはまず1を見てないことにゃ....”と拘って意気込んでいた少年たちにとっても、「記念すべきシリーズ第一作」を鑑賞し終えたその結果は、当然ながら大満足なものだった。
そうなると流れとして、次は第二作、第三作と順次観ていけたとしたら理想的であるが、しかし、第二作は既にリバイバル「ロードショー公開」済みであり、第三作も随分と前になるが、既にリバイバル公開済みなのである。
そうなると狙うは、2番館、3番館以降の劇場での上映を待つ、ということになるわけだ。
また、何れにせよ第1作「007/ドクター・ノオ」鑑賞時にお金を掛けてしまった経緯があるので、コストを抑え、尚かつ理想的な組み合わせでの鑑賞が望ましい。

 「007/ドクター・ノオ」の、ロードショー館での公開が終了して程なく、お約束のように“2番館”チェーンでの、「007/ロシアより愛を込めて・007/ドクター・ノオ」の2本立て興業の告知があった。だが、我々が狙うのはこれではない。この後、組み合わせにバリエーションの出る“3番館” チェーンが一番の狙い目である。
この当時、私鉄沿線の駅周辺にはこのような2番館、3番館以降の劇場チェーンや単館が点在しており、劇場規模もスクリーンも小さくなる代わりに料金も安く、ロードショー館よりも敷居が低い感じがして、子供同士であっても何となく気軽に利用しやすかった。

 そして暫くたったある日、いよいよ007関連のプログラムが、お馴染みの3本立て専門に上映の3番館劇場チェーンの案内に告知されたのだ。
それは我々にとって願ってもない第二作、第三作を含んだ「007/ロシアより愛を込めて・007/ゴールドフィンガー・他(ザ・ビッグマン?)」という組み合わせの3本立てだったのである。
勿論今回も“親と一緒に”ではなく、「ドクター・ノオ」を一緒に観た同級生の“ケンちゃん”と観に行く相談をしていたところ、他にも同級生でそれを聞いた者数人が相乗りを申し出た。
これで話は決まりだ、「次の日曜日は早朝、007上映館にて現地集合!」

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④ 映画小僧たちとオールナイト映画

 一体なぜ、日曜日の早朝に映画館に集合なのか? それは当時の2番館、3番館などの劇場チェーンの多くが、土曜の夜のオールナイト興行を行っていたことと関係があるのだ。しかし、オールナイト上映は「18歳未満お断り」だというのに、小・中学生の子供と何の関係があるのかといえば、それが“早朝”なのである。

 当然のことながら、18歳未満は土曜の夜から翌日の日曜日までを「劇場で夜明かし」することはどうしたって、法律上不可能なのだ。
ウラ返して考えれば、「劇場で夜明かし」さえしなければ良いと言うことである。従って、電車が動いてようが動いて無かろうが関係ない。明け方早々の“早朝”だったら、何の問題もないのであった。
当時の仲間たちは、数年前からの“サイクリング車” ブームで、大抵は自転車を持っていたので、電車に関係なく、早朝目覚めた者から順番にオールナイト興行明けの映画館に向かい、各自で入場し、場内で顔を合わせたのであった。

 従って、前夜から連続上映されている映画の、“途中からの入場” という感じになるので、タイミング的に「本編の途中」だったりするわけである。
そしてこの時も、案の定「007/ゴールドフィンガー」の終盤近くであった。有名なシーンで、フォート・ノックスに仕掛けられた核爆弾と手錠で繋がれたままのボンドが、間一髪で危機を脱するところ。止められたタイマーのカウンターが「007」になっていた、という場面の辺りだった。

 この「007/ゴールドフィンガー」が終わる頃には、予定していた面子は概ね揃い、いよいよ待望の第二作「007/ロシアより愛を込めて」の上映開始となったのであった。オールナイト興行明けの場内は殆ど人気もなく、まさに我々の貸し切り状態であり、みんなで一緒に場内のど真ん中に陣取って楽しんだことは、忘れがたい思い出になっている。

 当時の場末の映画館では、上映中の場内に必ずと言って良いほど煙草を吸う大人が居て、鑑賞が長時間にわたると所謂“受動喫煙”状態によって頭がクラクラしていることもしばしばだったが、この日のオールナイト興行明けの場内には、そうした大人の姿も見あたらず、早朝の街の大気を感じさせる雰囲気が場内にもあった。が、この手の映画館の印象と言えばやっぱり、場内に漂う(当時の安っぽい)「トイレの芳香剤の臭い」が強く記憶に残る。

 肝心の作品については、第二作「ロシアより愛を込めて」では、ボンドを狙う強力な敵スパイの登場と、前作を上回るスリリングな見せ場の数々に釘付けとなったあっという間の2時間で、続く第三作「ゴールドフィンガー」も、秘密兵器搭載のボンド・カー“アストン・マーチン”の登場が何と言っても最大の話題であり、用心棒=オッド・ジョッブの登場や、大規模なセットの数々も前2作以上のスケールと娯楽性を醸し出していた。
とにかく、こうしてケンちゃんと私は、シリーズ1.2.3作をものにしたのである。時は1973年頃であった。

 しかし、順当に007シリーズをこなしつつあったと思われた我々だったが、ここに来て暫くの間旧作シリーズは停滞してしまうことになるのである。
1973年7月初公開の第8作、“ニュー・ボンド”映画、「007/死ぬのは奴らだ」を挟んで、’73年12月には逆戻りする形で、“コネリー=ボンド”最終作の第7作「007/ダイヤモンドは永遠に」がリバイバル公開されたのだ。
そしてその後、第4作「サンダーボール作戦」がやっとリバイバル公開されたのは’74年8月のことだった。

 そしてまた、この一連の“リバイバル公開”の流れの中で、一番違和感を覚えたのが、この「サンダーボール作戦」の扱われ方で、リバイバル公開時には一番ショボイ扱いを受けていた印象なのだ。初期2作に比べると何故だか宣伝も殆ど無く、またそもそも上映劇場がロードショー館の中でも最小の部類を割り当てられており、おまけに、豪華で厚かった第1作・第2作と比べてパンフレットもぺらんぺらんで、初公開時には日本中(世界中?)をあれだけ熱狂させた人気絶頂期の作品の扱いが、当時とは全く正反対と言えるようなそのさまには、ガッカリしたものだった。

 初公開時のような、或いはそれ以上の大スクリーンで「007/サンダーボール作戦」観ることを期待していた私の夢は打ち砕かれたのであった。
更にその後2年近くおいてから“東宝系”に於ける、制作順の第5作「007は二度死ぬ」の’76年6月までを一区切りとして、リバイバル公開は行われていったのである。

 話は逸れるが、’60年代当時メインとなっていた“松竹系”と“東宝系”での「封切り作品」の公開の様子を比べてみると面白いのは、各映画のその第一作〜初期については何故だか松竹系での上映が多く、続編やシリーズ化となった以降のものについては東宝系で、という図式が見えてくるのである。
例を挙げると、前述の「007」の1〜2作目、007関連作の「0011/ナポレオン・ソロ」1〜3作目、「荒野の七人」の第1作、「猿の惑星」の第1作などが“松竹系”公開だったことがその例と言えるが、通常は(当時は)、初めからシリーズ化を想定して作られたような作品は存在しなかった。それは第1作の(世界的な)ヒットの結果次第だからである。