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 映画偏愛少年時代
 マイ・フェイバリット
 ムービー
新・荒野の七人
馬上の決闘
①第三作はもっとも悲惨?
②当時は第一作も
sp振るわなかった

③絶好のプログラムが
sp巡ってきた

④場末の映画館
sp〜TVでの再会

⑤ハーマン・ホフマンと
spジョージ・ケネディ

⑥新たなる七人の男たち(1)
⑦新たなる七人の男たち(2)
⑧本当の勇者は一度しか
sp死なない

女王陛下の007

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① 第三作はもっとも悲惨?

 題名から見てわかる通り、“荒野の七人シリーズ”と称される4作品中の第3作にあたる作品である。

今では当然のごとく知られているように、その“原案”は黒澤の「七人の侍」であり、それはその後数々の無許可の亜流、模倣作品をも多数生み出す事となった。

「七人の侍」が1954年、「荒野の七人」がその6年後の1960年、「続・荒野の七人」もまたその6年後の1966年、「新・荒野の七人/馬上の決闘」はその僅か2年後の1968年、最後の「荒野の七人・第四部/真昼の決闘」がその4年後の1972年という流れである。

 知名度からすると、この第3作は現在ではシリーズ中で最もマイナーな存在であり、大方の評価も芳しいものではないだろう。
本邦では当初、DVD化にあたってもシリーズ・セットでのみ果たされたが、単品での発売はその後かなり経つまで無く、この作品についてはTV初登場時から、その処遇は悲惨である。

 話の大筋は、メキシコで圧政に苦しむ農民たちや、圧政に抵抗する反対派の若者らの支えであった精神的リーダーが捕らえられたことから、その救出を図るべく助けを求めてガンマンたちを雇い入れ、砦のような牢獄に囚われの身となっている反対派の面々と、そのリーダーの救出をはかるというもので、ストーリー上も、前2作との繋がりは殆ど無く、唯一反対派の若者マックスにより劇中で語られる、「“クリス”が過去にメキシコの農民を助けたという事を、従兄弟から伝え聞いた....」という程度である。

 話の筋から見れば当然、そのクライマックスは、終盤の敵要塞(牢獄)への総攻撃と脱出計画ということで、そこが最大の見せ場であろう事が想像出来る。
確かにこの映画の話のクライマックスは、「敵要塞への総攻撃」ではあるが、相手が砦を構え、武装したメキシコ正規軍である上、そもそもが多勢に無勢であり、主人公たちはたちまち劣勢となり、殆ど勝ち目は無い状況に。

 では、その後どうなったかというと、クリスとの対立の結果、ボスが救出作戦への協力を拒否した“メキシコ人の山賊”たちが、ボスを見限ったサブ・リーダーに率いられて援軍に駆けつけ、それにより形勢は大逆転となったのであった。しかし、それと前後してクリスが敵であるディエゴ大佐を倒しはしたものの、その前に七人のガンマンの殆どは、既に討ち死にしてしまっていたのであった。

 このように書いてしまうと、ストーリーも単純で、主人公たちの活躍も乏しく、どうしようもないような印象を受ける事だろう。
しかし、この映画の“見どころ”はそういった部分ではなかったのだろうと、現在では思っている。
それには、この映画が作られた時代と背景、そして第1作が作られ公開された頃を振り返って考えてみると、それは見えて来る気がする。

 そもそも、「七人の侍」をダイレクトに“原案”としてつくられた「荒野の七人」第一作を私が初めて観たのは、男性化粧品「マンダム」のコマーシャルにより、日本中がブロンソン・ブームに沸きたっていた真っ最中の1度目のリバイバル公開時、時は1970年だった。既に大ヒットが約束されていたような状況下での公開といえよう。
でも、この映画が「制作された当時」のことを検証してみると、必ずしも好意的に迎い入れられたものでもなかったようだ。黒澤の「七人の侍」を観て感銘を受けた多くの映画関係者の中の一人だったユル・ブリンナーが、既に権利が他者の手にあることを知り、紆余曲折あって最終的に映画化権を手に入れ、予てから「西部劇版」を望んでいた監督のジョン・スタージェスと供に制作し、アメリカで公開されたのが1960年のことであった。

 ところがこの第一作、なぜか本国アメリカでのその評価は振るわなかったようで、当初から小規模な公開で、しかも不人気で1週間程で打ち切りになったとか。今でこそ「西部劇の名作」扱いされている第一作だが、当初はそんな扱われかただったとは、全く想像もつかない事だった。

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② 当時は第一作も振るわなかった

 その事実をあらわすかのように公開当時には、今では「あの名曲の」と表現されるようなテーマ曲でさえも、純粋な“サウンドトラック盤”扱いのアルバムはおろか、シングル盤の商品化もなされてはいなかったのである。その後に音盤化され、現在に至っている音源については、なんと第二作「続・荒野の七人」制作時のタイミングに合わせて商品化されたものであり、従って米国盤オリジナルLPのジャケットはタイトルもメンバー七人の顔ぶれも、続・荒野の七人=Return of the Sevenとなっていた。

 では、第一作の七人の顔ぶれはどうだったのかというと、今でこそまるでオールスター集合作品のような印象を受けるが、制作当時の番付は初回のリバイバル公開時とはほぼ逆の状態だったといえる。公開当時、主演は映画化権利保有者でもある“ユル・ブリンナー”であるとして、2番手は山賊のボス役でアクターズ・スタジオ出身の実力派俳優“エリ・ウォラック”(公開当時ポスター表記、現在は“イーライ”)、3番手はドイツから招かれたヨーロッパの若手二枚目系俳優“ホルスト・ブッフホルツ”、その次辺りにやっと、当時TVシリーズ「拳銃無宿」にて“お茶の間の人気者”(古い表現!)という感じだった“スティーヴ・マックィーン”、後はフランク・シナトラが監督にネジ込んだという当時既にそれなりのキャリアがあった“ブラッド・デクスター”くらいまでで、あとはその他(有望?)新人多数という程度だった。まあ要するに、サホド大した顔ぶれでも無かったということである。
他のメンバーについては、“チャールズ・ブロンソン”も当時TVシリーズ「カメラマン・コバック」というのに出ていたが、“ジェームス・コバーン”はTVの脇役止まり、“ロバート・ボーン”も似たりよったりだった。

 尚、現在でも言われていることのようであるが、“お茶の間の人気者”程度と、“ハリウッド映画の主演俳優(アクター)”或いは“ハリウッド・スター”では、まるっきり格が違うということ。TVで人気者だったりしても、映画に出ていないでいると「お前、いったい何処で何やってたの?」って感じらしい。要するにまったくキャリア的に、足しにならないというのがもっぱらの話である。 しかしその後、当初本国では散々な結果だった第一作も、遅れて公開された日本やヨーロッパ では好意をもって迎い入れられ、結果としてそれなりのヒットとなり、その勢いに乗って本国でも所謂“凱旋公開”された事で挽回をはかることは出来たのだった。

 そして更に年月は過ぎ、‘60年代半ばから後半にかけ、出演者たちのポジションは制作当時とほぼ逆転現象をおこす。既に“期待の新人”だったマックィーンを筆頭に、無名に近い存在だった新人たちも着実にキャリアをのばし、その人気度からは主演だったユル・ブリンナーさえも凌駕するまでになっていたのである。
そしてその一方で、その頃までには同じユル・ブリンナー主演のダイレクトな続編「続荒野の七人」、そして姉妹編的な「新荒野の七人」が制作され、「荒野の七人」シリーズといった様相を呈していた。

 要するに元祖「荒野の七人」の初回リバイバル公開がなされた時期というのは、第三作「新荒野の七人」が公開されてまもなくの時期であり、第一作の出演者である新米たちも知名度が絶頂となったのがその理由であったと思われる。 私がロードショー館で“第一作”を観たのがまさにそのタイミングであり、大劇場の大型スクリーンでみた豪華なメンバー、カッコイイ音楽、立派で厚い殆どカラー印刷のパンフレットなど、観終わった後も大興奮状態だった事を今でも忘れられない。

 すぐに虜となったテーマ曲は、劇場内で販売されていたシングル盤を親にせがんで買ってもらい、それこそ擦り切れるまで何度でも聞いたものだ。
しかし、音楽は正にサウンド・トラックに忠実な演奏のように聞こえるのだが、表紙の写真は何かが違ってる? 頭に「新」が付いてるし、写真に写っているのも知らない顔ぶれだし、なんで....? そういえば今回のポスター(リバイバル版)には、「あの面白さ、あのメロディに乗って本物の七人が帰ってきた」とか書いてあったっけ....。
思えば、これが私と「新荒野の七人」の出会いだったのである。

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③ 絶好のプログラムが巡ってきた

 「そうか~、この話(第一作)の続きがあるんだぁ、よ~し絶対に観てやるぞ!」と心に誓ったが、リバイバル版のパンフレットをみてみても、それらの存在について触れられている部分は皆無だった。

 現在とちがって、インターネットはおろか、家庭用電話だって黒のダイヤル式が1種類だけで、家庭用FAXも携帯電話も存在せず、衛星放送は勿論、家庭用録画装置も無く当然レンタルビデオなんか無い、それどころかウォークマンもCD存在しない昭和40年代半ば頃のことである。
「ぴあ」や「シティ・ロード」といった情報誌すらまだ登場しておらず、精々割と高額な「スクリーン」のような月刊映画雑誌くらいしかなかった。類似雑誌の「ロードショー」も創刊前だったか?
したがって、調べるにも情報源がなく、唯一手元にあるのは例のシングル盤「新荒野の七人」のジャケットに記載されたライナーノーツのみなのである。ここに紹介されていれた3部作の概要からストーリーやスタッフ・キャストのある程度までは、何となくうかがい知ることが出来た。あとは如何にして実際にこの2作品を観たら良いのであろうか?
しかし、そのチャンスは意外と早く訪れたのである。

 当時、劇場映画の公開というのは、まず初上映が大都市圏での“封切り”と呼ばれた「ロードショー公開」で、入場券が一番高額であるが、通常劇場も豪華でスクリーンも大きい。人気が1段落して次に控える作品に差し替えられることになると、次にその映画のフィルムは2番館と呼ばれる1ランク下の劇場で掛けられることになる。2番館は劇場もスクリーンも規模は小さくなる代わりに、料金が安くなり、一般的に「2本立て」と呼ばれる抱き合わせ上映になることが殆どである。大都市圏以外の地方都市での上映は通常、この時期に合わせて初めっからの「2本立て」抱き合わせ上映となり、場合によっては大都市では集客が望めなくてオクラ入り(首都圏未上映作品)になっていた作品が“抱き合わせ”と称して組み合わされることがあったりした。

 以降、フィルムは3番館、4番館と次々と劇場のランクを落していき、料金がドンドン下がっていくのとは逆に、フィルムは傷が増えて“雨降り状態”になったり、酷い場合は切られて場面がスッ飛んだりすることも。その代わりに本数は増やして3本立て上映で「~大会」みたいなプログラムで集客したりして、それはそれで重宝したものではあった。
「007大会」「黄金の七人大会」「夕陽のガンマン大会」とか「フィルムノワール大会」「アクション映画大会」とか、安くてお得で楽しいが、大抵(禁煙なのに!)場内で煙草を吸う大人が居たりして酸欠状態になり、3本目が終わる頃には頭がガンガンしていることもしばしば。
でも、お目当ての映画意外に思わぬ拾い物的に、気に入ってしまった映画が有ったりして、とても得をした気がしたことだってあったものだ。逆にショボイのが一緒になっていると、途中で飽きてしまい、「クソー、やられた~」っとゲンナリしたものである。

 当時、これらの上映スケジュールの情報については、通常は町中の一般の家屋の壁にはられた映画館の上映案内などや、新聞の映画欄を日々小まめにチェックする意外には方法が無かった。或いは、どこかで映画を見てきた友達からの予告編情報などで「今度あそこで~やるぜ」とか、たまたま得られた場合があるくらいだった。
そしてこの時も、確か新聞の映画欄で運良く見つけたと記憶している。それも都合の良いことに、なんと「続荒野の七人 / 新荒野の七人」の2本立て上映だ! あとあと良く考えてみれば、今回の第一作リバイバル公開により、私のようなことを考えた連中もそれなりにいたであろうことが考えられるので、それに当て込んでの上映プログラムがお膳立てされたということで、当然といえば当然の流れといえる。
とにかく「この期を逃したら….」とばかりに、休みの日にすっ飛んでいったのが昨日の事のようである。
そこは何番館なのかもはや分からないようなポジションの上映館で、現在も渋谷にある、西武百貨店ウラに並んでくっついた位置関係の劇場、“渋谷パレス劇場”でだった。

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④ 場末の映画館〜TVでの再会

 当時の慣例として、その手のチェーン館(パレス系とか、地球座系、オデヲン系とか色々あった)では上映作品が入れ代わる都度に、“一般”向け作品と“成人指定”(ポルノ)作品が交互に予定されていたのである。したがって一般向け作品上映時には何の問題もなく、子供でも1人で鑑賞する事が可能であった、が、“次回作”の「予告編」の上映は本編上映前には必ず流されていた。たとえ女、子供がそこに居ようとも、容赦なく。
私は子供ひとりで観に行っていた。逆に親と一緒だったら、気まずかった事であろう。しかし、幼すぎていったい何が起こっているのかサッパリ解らなかった。それに、当時のボカシは凄まじくて、例えば余りにも巨大な丸いピンぼけから、男女の頭だけが別々に突き出していて、何やらしているらしくその中で動いているのである。(しかし、これについても後々良く考えてみたら、成人映画の本編は未見なので、本編でも巨大な丸いピンぼけだったのか、予告編だったからなのかは小生には不明である。)「イケナイものを観てしまったのか....」とか思っているうちに、待ちに待った本編上映だ!

 大いなる期待感とともに観終わったあとの感想としては、「続荒野の七人」は見覚えのあるリーダー、ユル・ブリンナーが前作に引き続いて出ており、前作の生き残り3人が(役者は変わったが)登場して内容も結びついているので興味深く、取り敢えず満足をしたのだった。
しかし「新荒野の七人/馬上の決闘」については、前二作と同じように「クリス」と呼ばれる人物がリーダーだが、雰囲気も容姿もにても似つかない俳優で、まず違和感を覚えた。知ってる顔も出てこないし、ストーリーも前述のように何だか悲惨な結末で、爽快感も乏しい展開に思えた。従って、「続荒野の七人」の方が面白かった印象であり「新」はそれには劣るな、というのが正直な当時の感想である。
だが、この時の印象は後年、徐々に変化をしていくのである。

 特に「続荒野の七人」は、前作での七人の描き方のバランスの良好さを考えると、逆にユル・ブリンナーのワンマン映画的な印象が強くなってしまい、他のメンバーの個性が弱まってしまった。また、前作がメキシコロケされた際、現地サイドとの折衝に苦労させられた経緯からか、同作がスペインロケされている関係上、七人のメンバーにも馴染みの薄い現地俳優が入っている事と、前作に比べて空の青さの違いによるためか何となく画面から受ける印象は暗い。

 ブリンナーは(前作で懲りた経験から?)自身と他者との差別化を狙ってだろう、自らは2丁拳銃にUPグレードし、更には“原案”を意識してか「雨のシーン」を入れるなど意欲的な部分もあったが、成功しているようには思えなかった。「雨のシーン」は、より映画の印象を暗くし、ブリンナーの2丁拳銃はワンマンな印象を強めてしまっているようだ。それに前作の「クリス」とは違って、ほかメンバーに対しても、他者にも「説教がましい」セリフが多いように思えた。何だか妙にエラソウである。アメリカ側のメンバーは、後に頭角を表して来る“ウォーレン・オーツ”や“クロード・エイキンズ”といった中堅どころの個性派俳優や、人気TVシリーズ「ララミー牧場」で人気者だった“ロバート・フラー”などが固めているのに、どうも影が薄い感じがした。その為なのか、ブリンナー=クリスによる続編は、これで打ち止めとなる。

 しかし、ブリンナーはその後も、“クリス”を彷彿とさせるような役柄を何度か演じている。元々“リー・バン・クリーフ”主演のイタリア制作西部劇「サバタ・シリーズ」の第二弾を、何故かブリンナーが“クリス”のような黒ずくめの衣装で演じていた。バン・クリーフ演じる「サバタ」とはかなり印象が違う。後はマイケル・クライトンのSFもの「ウエスト・ワールド」とその続編「未来世界」に、これも“クリス”そのままの黒ずくめガンマン姿で出演していた。
余談ながら、“リー・バン・クリーフ”繋がりでは、後に制作される「荒野の七人・第四部」でバン・クリーフが「クリス」を、前述の大西部無頼列伝でブリンナーが「サバタ」をそれぞれやったことで両者の役柄が入れ代わった事になり、結果として逆転しているのはファンとしては興味深い。

 次に肝心の「新荒野の七人/馬上の決闘」についてであるが、何しろ初めての鑑賞時にあまり印象に残らなかったうえ、再見の機会もないままに時が過ぎていったある日、“土曜洋画劇場”という放送枠にてTV放映される事を知った。確か同放送枠にて「続荒野の七人」も見たように思う。しかし、この枠は同局(NET)の“日曜洋画劇場”で溢れたようなB級作品、劇場未公開作品、元々TV用に作られた映画(ムービー)やTVシリーズ化前のパイロット版、人気の見込めない作品などを扱う、90分「短縮時間枠」だったのだ。今考えてみても、元々が正味100分以上の作品を、解説+コマーシャルを含めて90分の枠で放送出来ること自体が謎である。

 「一体、どんな風にやり繰り(カット)を施すのだろうか...」と一抹の不安がよぎったが、初回鑑賞時の印象が悪かったとはいえ、家庭用のビデオ・デッキも無い当時、中々再見の機会に恵まれない作品との久々のご対面ではあったので、見逃しはすまいと当日はTVの前でその時を待っていた。そして、いよいよ始まったのだが、なんか違うぞ?こんな始まり方では無かったんじゃないか??と言う展開である。というのは、初めに事件が起こって、そのために7人を集めて...、というこのシリーズのお約束ごとのような展開が全くなく、既に最初っから全員がそろって馬にまたがって現れ、ナレーションが「〜の起こるところ、正義の味方“荒野の七人”が必ず現れる...」みたいなことを説明することで、なんか既存のヒーロー集団の出撃のような展開からいきなり始まったのだ!

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⑤ “ハーマン・ホフマン”と“ジョージ・ケネディ”

 当時は放送枠の関係上、カットして短縮された映画もたくさん見てきたが、これには流石に驚いた。映画のほぼ前半半分近くをいきなりバッサリと切ってあるようなやり方は初めて見たと思うし、後にも先にも他には覚えがない。編集処理による、回想シーンとしての転用すらないのである。
当然、本来のテーマ曲が流れるタイトル部分も含めてチョン切られてあるので、記憶では、七人がそろって馬にまたがっているシーンに、テーマ曲を適当に流していたように思う。

 まるで既存のヒーロー集団のように説明しておいて(それぞれの素性については全く触れずに)、終盤では見るも無残にその殆どが討ち死にでは、初めて見た人は一体どう思ったのだろうか?、謎である。このことで、この映画の「前半部分」の記憶はこれから後数年間薄れ続けていったが、確か池袋の“地球座”辺りでその後、劇場最後の再見を果たしたように記憶している。
その頃からだろうか?この映画の主人公である七人のキャラクターを何だか興味深く感じて惹かれるようになり、そこにこそ、この映画の狙いが込められているように感じはじめたのは....。

 映画の主人公である二代目“クリス”を演じたのは、この映画の前年に「暴力脱獄」で’67年度のアカデミー助演男優賞を受賞している“ジョージ・ケネディ”である。この俳優の容貌は大柄でどちらかというとモッサリトしたタイプであり、およそ活劇調の西部劇に登場する“早撃ちガンマン”のようには見えなかった。その理由が、いくら受賞して演技派として認められたからだとしても、何だかなぁと思えるのである。
この事についての経緯を想像してみると、本作「新・荒野の七人/馬上の決闘」の脚本家である、ミラード・カウフマンという人物が脚本化を担当して1955年に製作された「日本人の勲章」に触れておく必要がありそうである。

 この映画は、とある田舎町に片腕の男が、ここに住む“日本人”を訪ねてくるところから始まる。しかし、彼がこの“日本人”に会うためにやって来たことで、町の住民は警戒心を露わにし、更には数々の妨害まで受ける事になるのである。事の真相は、第二次大戦中にその“日本人”が町の有力者の手により、既にリンチまがいに殺害されていて、その有力者を恐れるあまり、町ぐるみでその事実の隠蔽しようとしていたのであった。そして、この来訪者は、同大戦中にこの“日本人”の息子によってその命を助けられ、その時に戦死した息子に贈られた勲章を届けにやってきたのであり、そのためにこの事件に巻き込まれてしまったのだ。結果としてそれが、この町で隠されていた、その事件の真相を暴き出す事になってしまう、というのが主なストーリーである。

 わたしはこの映画を、かなり昔TV放送(それもUHFのTVK)時に見たが、これを見た動機というのが、奇しくも、この映画の監督が「荒野の七人」第一作の監督その人である“ジョン・スタージェス”だったからだと記憶している。

 この作品は、アクション活劇などとは毛色が違っていて、どちらかというと社会派の人間ドラマだと言えるだろう。幸い“ジョン・スタージェス”監督であったために見たようなものの、このような「シリアス」路線の映画であると初めから知っていたら、当時の嗜好から考えるともしかしたら見ていなかったかもしれない。この映画の出演俳優たちの顔ぶれを見てみると、主演の“スペンサー・トレーシー”を初めとして、ロバート・ライアン、リー・マービン、アーネスト・ボーグナインといった、なかなかの個性派の実力派俳優を揃えていると思う。

 このような映画の脚本を担当した“ミラード・カウフマン”が手がけていた事を考えると、「新・荒野の七人/馬上の決闘」が単なるアクション活劇を狙って制作されたものではなかった事は想像がつく。

 そして、そこから主人公である“クリス”役に、アカデミー助演男優賞を受賞して演技派として認められつつあった“ジョージ・ケネディ”を採用した理由が見えてくる気がした。当時の米国版ポスターにも、“アカデミー助演男優賞受賞のジョージ・ケネディ主演” であることはハッキリと明記されている。

 しかし、七人の他の顔ぶれはどうだだろうか? これについては、同作の監督が“ポール・ウェンドコス”であったことの影響も伺える。この監督は、映画監督としても仕事をしているが、’60年代に制作されたアメリカのTVシリーズにおいて、その手腕を振るっている。例えば「ベン・ケーシー」「ドクター・キルディア」「アイ・スパイ」「バークレー牧場」「FBI」「ハワイ5−O」や「インベーダー」などという作品である。これらのシリーズも、“アクション・ドラマ”というよりも、実際は登場人物が少人数に限定された、登場人物たちの駆け引きにその焦点が当てられてストーリーが展開される、むしろ“人間ドラマ”といった趣の作品であったように感じる。このようなTV畑での手堅い演出が買われての起用であったのだろうか?

 余談ながら同監督は、67年の第一作を演出した“ジョン・スタージェス”監督の戦争大作映画「大脱走」の、後日談にウエイトを置いた“TVムービー”「大脱走2」のPart1部分を’88年に演出することとなる。
因みに「大脱走2」のPart2部分の演出が、ジョン・スタージェス版「大脱走」に出演の3人の米国人捕虜のうちの1人を演じていた俳優“ジャド・テイラー”その人だった事も興味深く思う。この人、他にも「逃亡者」「ドクター・キルディア」に出演し、同2作での演出や「ベン・ケーシー」「スター・トレック」などの演出、そして‘93年には「Return to 'The Great Escape'」というドキュメンタリー作品のプロデュースも行っている。

 そして、こうしたTVシリーズに“バイ・プレーヤー”として登場していた俳優たちも、7人のメンバーとして採用されていたのだった。

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⑥ 新たなる七人の男たち(1)

 生き残りのひとりとなる、初老の「ナイフ使い」“レビー”役の“ジェームス・ホイットモア”などもそうであるが、特にこの人の場合、その風貌が前述の「日本人の勲章」の“スペンサー・トレイシー”に、どことなく似ているという点も興味深い。また、名脇役的な役所で多数の映画にも出演している。
前二作における“ヴィン”に代って登場した、「クリスの相棒であり相談役的存在」の“キーノ”役“モンテ・マーカム”はTVシリーズへのゲスト出演、映画での脇役と幅広く活躍しているが、やはりこの映画の前年の‘67年に「荒野の七人」第一作の監督“ジョン・スタージェス”演出の西部劇「墓石と決闘」に出演していることは見逃せない。息の長いキャリアで、TVシリーズでは主演作品もある。

 元南軍兵士の「片腕の早撃ちガンマン」“スレーター”役の“ジョー・ドン・ベイカー”については、やはりこの映画の前年に「暴力脱獄」に脇役出演して “ジョージ・ケネディ”と競演しており、そうした経緯も想像できる。その後のキャリアは長く、主演作もある。 ストーリー上の「キーパーソン」であり、七人の一人でもある“マックス”役は、当時若手の新人で、その後’71年の「ダーティハリー」で、その相棒役1号として印象を残す“レニ・サントニー”。 シリーズで唯一の黒人メンバーで「ダイナマイト(爆薬)使い」の“キャッシー”役に、やはり当時の黒人若手新人俳優で、以降バイプレーヤーとして長いキャリアを持つ“バーニー・ケイシー”。 一番、その経歴について良く分からないのが、若くして肺病病みで印象の暗い黒ずくめの「ロープ使い」“P・J”役の“スコット・トーマス”である。

 解りやすく、かつ単純な言い方をするのであれば、前2作品に比べてこの映画の七人のキャラクターたちの殆どが、「精神的」或いは「肉体的」にそれぞれが何らかの欠陥を持つ、“片輪”であると言えるだろう。そしてそのような連中が同じ目的のためとはいえ、集団を結成し、行動するということは非常に危うい状況といえる。要するに、見ていて余りにも痛々しく感じるうえ、当事者たちは互いに打ち解けあうこともなく、逆に性格や立場の違いから、反目しあうような場面すら出てくる始末である。まさに“満身創痍”のボロボロの集団の様相だ。「人助け」をするどころか、その前に「自分自身が救われていない」ような連中ばかりだったのである。
しかしそれは裏返してみれば、「余りにも人間臭く、悲しい連中」で、何だか反って愛おしさがこみ上げてくるように感じられてならなかったのだ。

 そして、前述のように、そもそもがあまりに形勢不利な状況であって「はじめから全く勝ち目がない事が判っているような戦い」であったうえ、その報酬はそれに見合うようなものですら無い。そんな戦いになるのだと知っていながら、いったい彼らはなぜ戦ったんだろうか?
考えてみると、彼らが(無意識に?)その人生の終わりに求めたのは、せめて自分のその最後が“何かのための、意味のある死だった”と思いたかったことにあるのではないだろうか?
まるで、野良犬かなにかのように、無残に撃ち殺されていった彼ら。その死に様は、決して「かっこいい」ものなどではなく、また大活躍のうえの意味ある死に方のようですら無かった。
だから当然、この映画を初めて見た時にも「何だか悲惨な結末で、爽快感も乏しい展開に思えた。」ワケである。
そこには、カタルシスなど存在していなかったのだった。

“キーノ”は、初めてクリスと出会ったときから、誰に何を尋ねられても「何も聞くな(質問するな)」と返すばかりの、“殆ど素性のわからない男”で、過去には妻子もあったのか、色々とあったのであろう事を伺わせる。馬泥棒への報復のためのイカサマ行為から、半ばリンチまがいに絞首刑にされかけているところを、たまたまその場に居合わせたクリスの機転により命を拾われたことから、その一部始終を目撃して2人の後を追ってやってきたマックスの登場によって、行動をともにするようになる。
そして、その死に際に残した最後の言葉ですら「何も聞くな(尋ねるな)」だった。

“マックス”は、自らクリスに助力を願った当事者でありながら、その行動力を示し、七人の一人となることを願いでた。彼らの精神的リーダーである“キンテロ”の救出に対し、理想に燃える若き闘士として、その全てを賭ける覚悟を持っている。最後の戦いのさなか、“キンテロ”を守るために重傷を負った。
“レビー・モーガン”はクリスとは旧知の仲のようで、初老であるにもかかわらず、訪ねていった家には若いインディアンの妻と息子を養っていた。自らの年齢のことを考えると、昔のようにはいかないのは分かっていても、「多少の危険は覚悟しても、大きな仕事をして、今後の生活を支えるのための資金が欲しかった」のである。 ガンマンというよりも、その得意技は「ナイフ投げ」であり、静かに近づいて敵を倒すのである。

“スレーター”は、元南軍くずれでその軍服を未だに羽織ったまま、「片腕の早撃ちガンマン」“バッファロー・ベン”という見せ物をやっていた。そのショーに言いがかりを付けてきた客とトラブルを起こしかけたとき、彼に会いに来たクリスらに援護され、再会した。 かつては可成りならしたようだが、現在は銃を撃つにも一人ではタマ込めもおぼつかないし、“素手の喧嘩なら、子供にも負ける”と嘯く。世間から蔑まれていると感じて、自らを卑下しているような屈折した性格でもある。

“キャッシー”はメンバーで唯一の黒人であり、鉱山でダイナマイトを使うハッパ係をやっていたが、落盤事故の責任を押しつけられたことに怒って雇い主を締め上げたことで、追われるように仕事を辞めて仲間に合流した。まだ若いが、黒人であることで、そのための蔑みや差別が一生ついて回り、逃れることが出来ないと悟っている。
そしてこの、元南軍くずれの“スレーター”と、黒人の若者“キャッシー”の2人の絡みと関係が、この物語の1つの焦点ともなっているのであった。

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⑦ 新たなる七人の男たち(2)

 元南軍の兵士であり、南部の「黒人奴隷を容認する」立場の男と、その「黒人」の側である若者は、出発前から“スレーター”の無神経な言葉が“キャッシー”を怒らせたことで、ギクシャクした関係だった。

 未だに、夜になると“片腕”である現実に苛まれ悪夢にうなされる“スレーター”は、深夜に錯乱を起こし、その銃を眠っている“キャッシー”の向けたかと思うと、次の瞬間には空に向けて乱射し、挙げ句の果てには近くにあったオノで、自らの使えなくなった方のウデを切断しようとしたところを、目を覚ました“キャッシー”に殴られて気絶させられたことで止められた。
翌朝そのことを詫びて、キャッシーに礼を言いつつも、自分が世間から蔑まれているて救われない身であると自らを卑下して語るスレーターに対して、「自分は生まれたときから黒人であり、それが生まれてから死ぬまで一生続くんだから、お前なんかまだ良い」とキャッシーは語って聞かせるのである。

 そしてこの一件によって、却って二人の間には何らかの“絆のようなもの”が生まれつつあったのだった。そして、出撃前の最後の夜、「お前は、死ぬのは怖くないか?、俺は死ぬのが怖い...」とキャッシーはその内心を、心を許し始めたスレーターに打ち明けるのだった。

 戦いの日、キャッシーは奪った見張り台のガトリング砲を撃ちまくり、その弾丸が尽きてそこを離れようとした時、敵の銃撃にあって屋根から転落してしまった。その様を見て駆け寄ったスレーターは、キャッシーが命を落としたのを知って取り乱し、片手で劇鉄を起こして銃をうちながら、まるで放心状態で敵の方向へ向かって歩みを進めるが、そんな無防備な状況にディエゴの銃弾を浴び、キャッシーの後を追うかのように絶命するのであった。

“スコット・トーマス”は出発の直前に、彼らが居た酒場に姿を現し、「仕事」の詳細を聞くこともなく“クリスに任せる”ことで 合流した。その経歴も殆ど分からないが、実際はまだ若いようなのに肺病病みのために、自らの命がそう長くはないというように理解しているように見える。得意とするのは「ロープ投げ」だが、前述の理由からか、衣装も黒ずくめの印象の暗い人物である。彼らが活動拠点とした集落のメキシコ人の娘に好意を持たれ、しだいに心を開いていった彼もまた、戦いの前夜には彼女と二人束の間の幸福を感じあっていたが、戦いの後、再び彼女の元に帰って来ることは無かった。

 決戦の前夜“レビー・モーガン”も、敵との最初の遭遇時に囚人にされた農民たちの中にいる父親を追いかけてきて、レビーらに助けられ、なついていた少年と共に、「父親代わり」としての最後の時を過ごしていた。自らも家に同世代くらいの息子を養っている彼にとって、“自分の父親を救出してくれたのみならず、彼らのために戦ってくれる英雄”であるかのように慕う少年への眼差しは、まさに「父親」の心境だったのであろう。
決戦の後の去り際には、作り続けていた完成させた木製の剣を渡し、「いつか本物を正しく使って、人々を助けるように」と諭し、別れを惜しんで涙を見せる少年を再び強く抱きしめた後、自らも振り切るように父親の元に押し戻すのであった。

 そして、彼らのリーダーでもある“クリス”だが、マックスも言っていたように、メキシコ人たちの間では、過去に彼が仲間と共に“ある村を守るために戦った”話は伝え聞かれているようだが、これが白人たちとなると、「お前、知ってるぞ、クリスだなっ!」などという言われ方をするような、“有名”ではあるとしても、あまり有り難い意味での事では無さそうで、どちらかというとまるで“煙たがられて”いるような人物みたいである。以前の2つの事件の後、彼は何処で何をしていたのだろうか?

 彼らが計画立案の途中、要塞攻略の為には“下見”が不可欠であるということになり、クリスが「金を探しに来たアメリカ人」という素性をかたり、道中の“水切れ”を理由に援助を願って、要塞内に入ることに成功する。しかし、そこでクリスが見た物は、人間の尊厳をも破壊してしまうようなやり方の尋問、或いは拷問であり、その為に行われる囚人たちへの残忍な行為であった。
クリスは衝撃と怒りに打ち震えるが、それを表に出すことなく、仲間の元へ戻って来て、その事実を皆に語るのだった。

 山賊のロベロの加勢は当てに出来ず、敵は総勢200人。このままでは“1人対30人”の計算である。 そしてクリスから伝え聞いた敵状に、流石に7人にも動揺が走る「勝ち目はない...」。そんな彼らに、クリスは「抜けるなら勝手にしろ」と呟いてその場を離れた。
この時、既にクリスの中で何かが変わっていたのであろうことが感じられる。
彼もまた、戦いの前夜「メキシコ人に、はめられたな」とぼやくキーノに、「初めから分かっていたことで、どうせ何も無く、死んで悲しむ者もない」、そして「メキシコ人は悲しむだろうか....」と呟くのであった。

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⑧ 本当の勇者は一度しか死なない

 映画の終盤近く、7人の仲間の4人までが既に討ち死にし、マックスも深傷を負った直後に、クリスが敵であるディエゴ大佐を倒したのと前後して、ボスとクリスとの対立により協力を拒否した“メキシコ人の山賊”たちがそのボスを見限り援軍に駆けつけたことで、この戦いも終焉を迎えることとなるのであるが、それもまた、国を思うマックスの熱い心に打たれて愛国心を呼び覚まされたことと、そのマックスが信じる“クリス”たちの行動あってこそだったことであろう。

 この映画の最後、生き残った“クリス”と“レビー”が、もう一人の生き残りである、そもそも最初に助力を求めてきたメキシコ人の若者である“マックス”との別れの時が来る。クリスはそれまで“メキシコ語”を理解していないように思えたのに、その去り際にマックスの耳元にメキシコ語らしき何かの言葉を囁くのであった。そして、囚人にされた農民たちとの最初の遭遇時に助けてレビーになついていた少年の父親に、「預かっておいてくれ」と戦いの前に渡しておいた筈の自分たちへの“謝礼”を置いたまま行ってしまうのである。呼び止めようと叫ぶマックスに対し、無事救出されたリーダーの“キンテロ”がそれを制する。「彼は、忘れたんじゃない。」と。

「クリスはなんて言ったの?」と少年に尋ねられてマックスが教えた、クリスが去り際の最後に残した言葉は、「臆病者は何度でも死ぬが、本当の勇者は一度しか死なない」だった。
それは一度きりのその命を、(その動機や、理由を問うことなかれ)虐げられた人々のための戦いで落としていった仲間へのたむけだろうか? 彼らが真の勇者なのだと。
映画を締め括るこの言葉に、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。なぜかさめざめと泣けてくるような気持ちになるのだった。

 因みに、この言葉の語源になった言葉があるのではないかと考え、参考までにと探してみたところ、ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の中に登場する、ほぼ同内容の言葉「臆病者は、本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない。」というものをみつけることが出来た。
その意味合いとされるのはやはり「臆病者は死を恐れるあまり、何度も死の苦しみを味わうが、勇者は死を恐れていないので、死ぬのは一度きりである。」とうようなものであり、だとするなら私の考えもあながち見当違いでも無かったであろうか。

 それから最後にもう一つ、この映画の題名のことに触れておかねばならないだろう。
シリーズの第一作はそのタイトルを“The Magnificent Seven” =“素晴らしい七人”という。第二作目も単純に“Return of the Seven”=“帰ってきた七人”(或いは“Return of the Magnificent Seven” “帰ってきた素晴らしい七人”)となっており、タイトルからしてその主役はあくまでも、“七人”=人間(人物)であることがわかる。
しかし、この第三作目だけは“Gun of Magnificent Seven”=“素晴らしい七人の銃(ガン)”となっており、当時のポスターなどのアート・ワークでも、ズラッと扇状に広がるように並んだ、タイプの違った七人それぞれの銃がシンボライズされていて、主役は人間ではないのだ。

 このことが意味することを考えたとき、私には一種のツール(道具)である“銃”が使われる目的ということが浮かんできた。
この“七人の銃”はいったい何のために使われたのか? それが向けられた相手は何だったのか? それを問いかけているように思えたのだ。
前述のように、それはまるでボロボロの集団といった有様で、「人助け」どころか「自分自身が救われていない」ような連中だった彼らの銃は、“弱き者を守るために”また“人間の尊厳を守るための戦いに”使われたのである。
それが分かったとき、この映画の原題は意味深いものなんだと理解したのであった。

 この映画が登場した時代を考察してみると、終盤に同じような敵要塞内での攻防戦を見せ場とした「ワイルドバンチ」(The Wild Bunch) はまだ登場しておらず、「新・荒野の七人/馬上の決闘」公開の翌年の1969年に公開され、“時代の波に取り残された無法者たちの滅びの美学を描いた「最後の西部劇」”などと言い表されるが、登場時期のそのタイミングによる両者の関係は微妙である。
また、この頃はニュー・シネマの台頭期らしく、「〜の挽歌」のような、“時代の波に取り残された滅びゆく者たち”をテーマとした作品は多い。
そうした中での、この映画の置かれたポジションは決して高いものとは言えず、また、その完成度の点から言えば、ストーリー展開、人物描写などや演出についても甘い点も多く、決して想定された思惑通りに成功している作品であるとは言えないだろう。
しかし、それでも私はこの映画を、味のある、忘れられない一本として記憶に留めておきたいと思うのである。